第15回(最終回)
 

古本屋 緑金書房
十六歳の主人公に異世界体験をさせるには、親と学校の邪魔を手っ取り早く取り除く必要がある。
木守比奈子の場合、おりよく研究休暇を得た英文学者の父親が渡英することになったため、思いがけない自由がもたらされた。そもそも母に先立たれた彼女は、雑司ケ谷の家で父と二人暮らし。しかも事情あってただいま高校には不登校中である。そのうえ、お手伝いに通ってくる初さんも、家の事情で来られなくなったというから、おあつらえ向きのシチュエーションがそろった。
小石川に住む親戚のおばさんとはあまり仲がよくないし、絶対そこに行くのは嫌だと宣言する比奈子を、父は比奈子の母方の親戚が営む月島の古本屋、緑金書房へ託した。雑司ヶ谷・小石川・月島という絶妙の地政学的ポジションも興味深いものながら、何よりも、この月島の古本屋は、金子緑郎なる謎の人物と、クロと呼ばれるネコが取り仕切る不思議な店だったのである。つまりロクさんとクロさんだ。
友だちづきあいよりは本を読むのが好き、とりわけ古い本の匂いが好きな比奈子は、喜んでこの古本屋に寝泊まりし、緑郎さんを手伝って店番、という新しい生活を始める。しかし、店の主人であるという大叔母「ご隠居さん」はいっかな姿を見せないし、年齢不詳、身元不詳の緑郎さんは、自分のことを何も話さす、謎は深まるばかり。しかも比奈子はクロが人語をしゃべるのを、はっきりと聞いてしまったのだ……
 
異世界での謎解き 幻想のイギリス
この古本屋を一種の通路に、比奈子は不思議な「あちら」の世界に足を踏み入れ、ミドリと名乗るヴィクトリア朝の人形のような少女に出会う。彼女は、ジャン・クロードという給仕兼執事兼庭師と一緒に、庭園のある屋敷に暮らしているという。少女ミドリが実は「こちら」の大伯母みどりさんであり、万能の使用人ジャン・クロードは、黒猫クロと重なりあう存在であることが明らかになっていくのだが、いったいこの古本屋とは、そしてその住人たちは何者で、比奈子の過去と現在と未来に、どうかかわってゆくのか。
たんすの中からひらけるナルニア国にシェイクスピア劇の『真夏の夜の夢』がオーヴァーラップし、アリスの鏡を境界に隔てられているようで重なっている「あちら」と、「こちら」を行き来するうちに、比奈子は自らの内に秘めていたアイデンティティの謎に直面してゆくことになる。なぜなら、いったい何者なのか、隠していることを教えてほしいと緑郎に迫った比奈子は、その代わりに君の秘密をも話してほしいと要求されるからだ。誰にも話したことのない、彼女が登校を拒否しているその本当のわけを。
それだけではない、この「あちら」の世界には、比奈子が自分にも隠し続けてきた無意識の葛藤が色濃く反映されている。いつかは直面しなければならないその葛藤だったからこそ、この予期せぬ休暇の、たった一人違う世界に住みこんだ時期に、こういう形で現出したのであろう。
比奈子の心にくすぶるのは、例えば、だれもが口をつぐむ、母の死をめぐる謎。または、父が目をかけている女子学生に対する嫉妬心。あるいは、年上の学生へ寄せた思慕。だから彼女を襲う悪夢的な事件は、すべて、父の学生、父の声、初さんというように、よく知った人の顔や声を借りて彼女を脅かすのだ。
有名な話だが、フロイトは、「不気味なもの」を表わすドイツ語が、unheimlich つまり、heimlich(親しいもの)の否定形であると同時に、その親しいものを露わにするという意味であることを重要視した。不気味なものは、実は隣にあるものが不気味であることを露呈した時が一番怖いのだ。
みどりご隠居さん/少女ミドリは、ジョージ・マクドナルドの描く『リリス』の謎の女性のように年齢不詳の超時間的存在だし、さりげなく比奈子を導くネコのクロは、鴉であり図書室の司書であるレイヴン氏を思わせる。マザー・グースのメロディ、アリスの地下の国、真夏の夜の乱痴気騒ぎに、時が流れぬ妖精国。この小説で描かれる「あちら」は、比奈子の父が研究するイギリス文学に彩られた幻想のイギリスである。
 
緑郎さんの謎と等価な比奈子の秘密。というわけで、比奈子は実は自分の人生という謎を解いているのだ、と考えられるわけなのだけれど。やはりその導き役は、鴉でないならネコしかない。
 
緑色の毛並みと金の瞳をもつ黒猫「クロ」
緑色に近いほどのつややかな黒猫で(ノラの黒猫にはときどき赤茶けたタヌキ色のがいるがそうではなく)、顔が小さく(外国系のネコの血が混じっているに違いない)、スマートで黄金の瞳のクロは、人語を話す時に、月島っぽい下町言葉がでる(たぶんここで学んだからだろう)。比奈子のすることなどお見通しだから、威嚇もすればバカにもする。しらんぷりをしながらしっかり観察しているし、見られたくない荷物の上にはどっかり座ってぜったいどかない。毛並みと瞳にしっかり店の名前通りの「緑」と「金」を持つクロは、油断ならないケモノの勘と優雅な容姿を併せ持つ。
「あちら」の世界で家事使用人としてミドリに仕え、イギリス風アフタヌーン・ティーのタルトにサンドイッチ、その他の料理に手腕を発揮、紅茶を入れてお客をもてなすときは、黒服にどこかネコめいた容貌のジャン・「クロ」-ド。何もかも承知で、ひっそり陰で笑っているような性格の悪さに、愛想のよさが同居する様はまさに天性のネコ(ってネコなんだから)。そのくせ、比奈子のつけた茄子の糠漬けがえらく気に入ったというところが、どこか月島の風土に通じている。
できればジャン・クロードなどというフランス風の名前ではなく、ジョン・クロフォードとでも名乗ってほしかったが、そうするとあまり料理が上手でなさそうな感じもする。(蛇足ながらアフタヌーン・ティーの紅茶に、ダージリンを使うのはやめた方がいいと思う。ミルクティに合わないし)。
最後にクロさんの語りで物語は締めくくられ、すべての謎は解き明かしてはくれないのだが、とりあえず比奈子は納得しているし、彼女と緑郎さんが幸せになったのだからいいだろう。ダークレディの謎は、261ページ目にヒントがあると思うのだが、それもクロさんは明かしてくれなかったなあ。
この物語が、クロさんのいうように、もしネコが昼寝しながら見た夢であったのなら、このネコエッセイも15回を数えて一周して、アリスの黒猫が見た夢であるかもしれない鏡の国へと戻ってつながることになる。ファンタジーは、ネコの見た、または見せた夢なのかもしれない。
うちのキジネコ、タビィは大きな緑の目で私をじっと見つめ、ニア、となく。それは隠している自分の心と直面せよ、そこにあちらの国への扉あり、と言っているのかもしれないが、今日のゴハンは金缶まぐろ、鰹節のトッピングで、レンジで2分チンしてね、と言っているのかもしれない。または、その両方を同時に言っているのかもしれない。なにせ、ネコというのは、今までこうして見てきたように、裏表のある二面性の生き物なのである。
 
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まだまだネコの導く物語はこのほかにもあるかもしれないが、いったん「隠れたネコを探せ! 私的ネコ児童文学の事典」はここで終了させていただきます。ありがとうございました。4月からはあらたに児童文学を草木・花実で読み解くエッセイを連載する予定です。

 
 
 
 
 


 

『緑金書房午睡譚』
 篠田真由美
 講談社NOVELS