第3回
 

日頃あちこちを飛び回っている私は、お盆くらいしか、畑の世話をしてやることができない。朝明けきらぬうちから起き出し長靴に麦わら帽姿のにわか農婦は、おうここも、ありゃそっちもかと、雑草と野菜がこんがらがって伸び放題の畑の中を歩き回る。
気が付けば陽も高く上がりそろそろ朝ごはんの支度をと姿勢を変えたその瞬間、足元のごぶごぶした根っこにつまずいてしまった。バランスを崩した私の体は勢いよく地面へと傾き、その傾きをなすびを支える塩ビニ製の細い支柱が待ち構えていた。アッと思った時には、左目が支柱めがけて突撃していた。ぐにっというなんとも生ぬるい感触、それでいて脳みその奥の奥を突き上げるような感触が走った。
握っていた剪定ばさみを放り、泥だらけの軍手を脱ぎ捨てた。湿った土のにおいが残る手でそろりと目を覆うと、家の中に駆け込んだ。痛い。ずんずく疼く。こわくて、自分では鏡で確かめることができない。指のあいだをちらりと広げ、夫に見せた。
「血だ」
血という言葉だけで卒倒しそうになる。破れたか? 穴が開いたか? 目は粘膜だけで皮膚と張り合うように飛び出ているもんな。血はどこから垂れとるんやろ。相当な勢いで突っ込んだしな。どろりと目玉が落ちてくるなんてことはないよな。やばいぞ。もともと、左目網膜は剥離しかけで、強い刺激を避けるように厳命されていたのに。こりゃ、手術かも。お盆だしな、こんな田舎じゃちゃんとした医者にやってもらえる保証もない。どうする。どうする。
いきなり巣を踏みつぶされたアリがパニックで動き回るように、せわしなく考える。
夫が呼んだ救急車は眼科対応に二の足を踏み、結局お盆も診察している大学病院の眼科を、新患として受診することになった。不安で早鐘のように打つ心臓と、炎のまん中で焼け悶える左の眼は、おあずけをくらったように、窓口の手続きは、のらりくらりとしか進まない。
「紹介状はお持ちですか?」今朝転んだといってるだろ。
「紹介状のない場合は、別途5400円かかりますが」火だるまの目をして5000円かかるからやめるなんてことがある?
焦っているのは私だけ。8月15日の大学病院内は、遺跡のように生きている気配がない。
どくどく痛みが突き上げる目を氷で冷やしながら、20分近く受付で待たされる。
ようやく受け取った診察のためのファイルを持って、もたれかかるようにエレベーターに乗り込む。私の知っている平日のエレベーターは、一刻を惜しみ受診科の窓口へ向かう患者たちの競り合いの斜面。ところがこの日はどうだ。ひとりずつひとりずつを乗せて、間の抜けたような速度で動く。2階の突き当りが眼科だ。
ついにたどり着いたと周りを見渡した私は、そこに在る患者の群れに驚いた
黙りこくってどこをみるでもなく、どの人もしっぽりソファーにからだをうずめている。私のように身勝手な一大事に翻弄されている様子の患者はどこにもいない。受付前の張り紙に《8月15日は、予約診療のみ》と書いてある。救急車からの連絡があった私以外は、みなこの日この場所に来る予定だった人たちなのだ。73年前日本が戦いに負けた日だ。家にはご先祖が戻ってきているはずの日だ。
待合の大きなテレビは、同郷の高校球児が甲子園で強豪と1点をもぎ取りあっている白熱の模様をドンドンという太鼓の音とともに伝えている。しかし、このソファーのまわりに応援団はいない。あ~、空振り三振ですという嘆きのアナウンスなど関係なし。やった~、やりましたという歓喜の雄たけびも関係なし。8月15日の患者たちは、腰をおろしたソファーごと遠くの空にぼんやり浮かんでいる。
入院していて、手当てのために、病棟から下りてきている人。盆明けの手術のための打ち合わせに来ている人。血糖値があがらないよう点滴に来ている人。息子と一緒にこの先の治療について医者の説明をじっくり聞こうとしている人。あれやこれやの日常を差し置いてこの日を選びやってきた人々が握っている時間の流れ方は、どこか肝が据わっている。
隣に座っていたおばあさんが、トイレに行くため杖を頼りにスローモーションで立ち上がった。付き添いの娘さんが小声で「大丈夫? 廊下暗いから電気をつけてもらおうか?」とささやいた。振り返らず母親は言った。
「いらん。たいして変わらん」。
おばあさんのことばには、見ることへの執着よりも、見えないこととの付き合いに心を向けているような病の貫禄があった。
昔通っていた鍼灸院の先生に「目あきは、目でしかものを見ようとせんからたちが悪い」と言われたことがある。失うことでしか得られないもの。それを知らずどうすればどうすればと、あがいてしまう。日本国のことでない。高校球児のことでない。今か今かと診察の時を待つ私のことだ。覚悟せよ。
薄暗い廊下を眺めながら、自分に言い聞かせた。
 
大変な騒動を引き起こした左目は、刺さった白目の弾力が幸いして、5日たった今、少しずつ光を取り戻しつつある。