第4回
 

 
腰痛解消に、早朝ランニングを始めた。
小さいころから、私は並外れて走るのが遅かった。小学校の運動会では、ヨーイ・ドンで、同じグループの全員に置いて行かれ、次のグループの全員に追い抜かれ、ゴールで待つ旗持ち係を混乱させた。
それでも、60歳を前にオレンジ色のランニングシューズを履き、ジャージ姿で腕を振り地面を蹴ると、お、昔陸上でもやっていたのか? と思わせる雰囲気がなくもない。その気になる。
朝6時前。アパートを出ると、狭い路地の両脇に独居老人たちのすまいが続く。道端に痩せたお尻を乗せしゃがんでいるおばあさんが、私が横を通ると、手首に巻き付けた信玄袋をきゅっと胸に引き寄せる。ご用心。ご用心。「おはようございます」とあいさつをするがおばあさんの耳には届かない。
突き当りを左折して大通りに出る。するとコンビニを皮切りに、鉄筋コンクリートの建物が姿を現す。歯医者。写真館。仏具屋。グループホーム。足運びのぎこちない私は、建物の並びが途切れるたびに、息が詰まって、足を止める。赤いポストが先に見えるだけで、足が止まる。犬と散歩するご婦人とすれ違うだけ、歩道橋の灰色が剥げているのをみつけるだけで、足が止まる。止まっては走り、止まっては走る。
そうこうしているうちに、コンクリートの並びが消え、空き地を越えると民家の並びに変わる。やや汗ばんだ胸の中に、風といっしょに、いろんな朝のにおいが入りこんでくる。どこぞの家の線香のにおい。甘辛い醤油のにおい。かとおもえば、つ~んと足元から灰汁のある草のにおいが立ち上ってきて、おやこんな石畳の継ぎ目からも葉っぱが、と驚いたりもする。
勝手に決めたランニングの折り返し地点は、赤と黒のまだらな壁に囲われた焼き肉店を左に見て緩いカーブを曲がったところにある児童公園。朝6時前の公園には、夜の湿り気をまとったままの樹々と、去っていった鳥たちが残す気配だけだ。すべり台のてっぺんの手すりにも、鉄棒のポールにも、数時間前には鳥たちが足を乗せていたのではないか。鉄さびのにおいに交じってかすかに鳥臭い。
公園の中を一周し、アパートに引き返す道の途中に《國神社》がある。860年創建という歴史のある神社だ。横目で見やるだけでため息が出るほど、ここの石段は険しい。ランニングを始めた当初、ごつごつした武骨な石を延々と積み上げた階段のさまに、圧倒された。この石段を上がって本殿にお参りするのは、いったいどんな人だろう。信心深いお年寄りが杖ついて上るには、危なすぎる。長すぎる。かといってなんなく上がれる若者たちが、ここにやってくるとも思えない。いずれにしても、私には無理な階段だ。
ところが、日を重ねるうちに、ちょっとなら上れるかな。おお、やはりきつい。腿がひくひくする。でももう少し。あら、今日は少しラクな感じだぞ。ちょっとまてよ、意外と真ん中あたりからは石の感じがなだらかになるぞ。と少しずつ高い場所まで足を運ぶようになった。こうなると欲が出る。ふくらはぎや腿の感じだけでなく、石のへこみ加減や苔の生え具合を意識しながら、自分と階段にしかわからないような言葉のない会話をてっぺんにたどり着くまで繰り返す。部外者で申し訳ありません。
そして、今日の朝。いつものように、一段目に足をかけようとすると、上から筋肉の塊のような青年が、すごい勢いで駆け下りてくるのが見えた。強き意思以外何物も持ちませんという形相だ。すれ違いざま、ハッハッハッという荒い息遣いとともに、汗の飛沫ががビュッと私の頬にあたった。キャッとからだをよけたが、そのすぐあとで、今度は背後からハッ、ハッ、ハッ。塩水のような汗がビュッ。筋肉青年が、私を抜き去り、再びてっぺん目指して駆け上がっていく。あっけにとられていると、上からぞろぞろぞろぞろと、新たな筋肉青年たちが駆け下りてくる。そして、むおっとする汗のにおいと共に通り過ぎたと思うとすぐまた背後から追い抜かしていく。石階段は、完全に筋肉の鍛錬場所だ。私がてっぺんにたどりつくまでに、彼らは4往復を達成。私がはあはあ前かがみに息を整えているあいだも、彼らはさらに上り下りを繰り返している。部活動の練習かなぁ。アメフト部か、ラグビー部か? とその様子をぼんやり見降ろしていると、横で「ふふふっ。機動隊の方たちですよ。週に2回練習に来られるんです」と、ささやき声。見れば薄い水色の花柄のシャツにベージュのパンツ姿のご婦人だった。私よりずいぶん年配に見える。いつからここに立っておられるのだろう。それよりどうやってここまで上がって来られたのか? 私のように、筋肉青年たちとすれ違い追い越されしてようやっと這い上ってきた感じにはとても見えない優雅な雰囲気が漂っている。
「おはようございます。今日はここ〇〇半島に気持ちよい良い風が吹いてまいります~~」
几帳面な音声が器械から流れてくる。見回すと、社殿の隅っこに黒光りのする古いラジオが置かれ、そのまわりにわらわらとおじいさんおばあさんが集まっている。ポロシャツだったり、半そでワイシャツだったり、みんな軽やかないでたちだ。3人、4人、5人……結構な人数だ。いったいどこからどうやって集まったんだろう。水色花柄のご婦人もそうだが、彼らが踏んでいる地面は、すぐ下で繰り広げられている苦痛まみれの道とは別物の世界。雲の上の住人のようだ。
ぷらんぷらん腕や腰を回しながら、彼らはけらけらよく笑う。笑いながら、ぷらんぷらん、社殿のまわりを行ったり来たり。そしてラジオからは、体操開始前の天気情報が流れている。
一方、筋肉青年たちは、とうとう仲間を背負いあっての駆け上がり、駆け下りを始めた。背負う方も背負われる方も、顔が赤らみゆがんでいる。
ラジオからおなじみの音楽が高らかに鳴り始めた。
雲上の老人たちは、さっと隊列を組んで、背中を伸ばす。
ラジオたいそうだいいちぃ~
うでをまえから上にあげて、大きく背伸びのうんどう、はい!
いち、にい、さん、し、ご、ろく……
とつぜん前の列にいたおじいさんが、口を開いた。
「わしゃぁ、とうとう銭がのうなってな。食べるものにこまって、めざしをこうたんじゃ」
すると、となりのおじいさんが、動きを止めて、横を向く。
うでをまわしまーす。
いち、にい、さん、し、ご、ろく、
いち、にい、さん、し、ご、ろく、
「めざしはじょうとうじゃあ。ほんで何匹食べたんなぁ?」
あしをよこにだして、むねのうんどう、はいっ。
「それがな、5匹で198円じゃったで」
よこふり ななめ上に大きく

ご、ろく、ななぁ~、はちぃ~、
「まぁ、ふたりで、ええ話をしよるがぁ~」
後ろの列のおばあさんも会話に加わった。
みんな、わずかな時間のラジオ体操を目的にここに集っているはずなのに、体操のはるか向こう側で他愛ないおしゃべりを続ける。ふんわりふんわり、体を揺らして。
やわらかくはずみをつけて 3回おこして うしろ反りぃ~

いち、にい、さん、しぃ
いち、にぃ、さん、しぃ
反り返ったりするものは、だあれもいない。かすかに顎を空へ向けるだけ。
気づいたら、深呼吸で、ラジオ体操は静かに幕を下ろしていた。
おじいさんおばあさんの語らいも、音楽の終焉と同時にしゅう~っと収まった。
めざしのおじいさんが、ひょこひょこと社殿の隅まで歩いて行って、ラジオのスイッチをパチンと切った。
すると、なんの号令もなしに、老人の集いは解散となり、あららあらら、どこへ消えた? あれほどいたおじいさんおばあさんたちの姿が一人残らず消えていた。私に声をかけてくれた上品なご婦人もいない。影も形もない。
びっくりして、あたりをきょろきょろ見渡す。階段を真下に見下ろすと、機動隊のお兄ちゃんたちが、まだ訓練を続けている。
狐につままれたような気持で、社殿の後ろへ回ってみた。
すると社殿の後ろに、今まで気づかなかった鉄筋コンクリート神明造りの本殿が現れた。そして、樹々の繁りをくぐるようにして、ここに続くゆるい傾斜の道が下まで伸びていた。
へぇー、こんな裏道があったのか。そうかそうか、きつい階段を登ってこなくても、ここを上がり降りできるんだと納得した。
それにしても、だ。この裏道を降りていったはずの老人たちの背中が一つも見えない。体操をしているときはふうらりふうらりしてるように見えたけど、実はよっぽどの健脚なんだなぁ。
アパートに戻る道々、ポケットのスマホを出してこの摩訶不思議な神社のことを改めて調べてみた。
すると、驚くことが判明。おじいさんおばあさんが、ふいっと姿を消したあの本殿のある山頂部は、竪穴式古墳であることがわかった。つまり、古墳の上に本殿がのっかっているわけだ。
私の脳裏に、軽やかな雲上の老人たちの姿が蘇った。もしかして彼ら、深い土中の穴から毎朝、浮き上がっていたりして。浮き上がってきて、メザシ1匹2匹を数え、けらけら笑いながら気ままに腕を振り回し、気が済めばまた穴の中へ。まさかねぇ。
でも、現在を這いつくばって生きて生きて、やがて行きつく先は、重力のすとんと抜け落ちた老人たちの場所かと思えば、あにはからんや。実はまだその先があって、骨になり埋められたそこから再び、別の上り下りが始まるのか。
何としてももう一度、あの老人たちに会わなきゃ。みなさん、いつ出て来られます? 明日ですか? 明後日ですか?
歩きながら私は、雲の上の人たちに語り掛けた。